目を閉じるだけで良い
人間にはその人特有の匂いがあって、そして人間の鼻というのは思っているよりもきちんとそれを嗅ぎ分けて捕らえているものらしい、とはぼんやりと柔らかいソファの布地にうずもれるように身体を預ける。部屋の主はどうやら不在のようだった。折角この私が直々に訪ねてきてやっているというのに、と呟く声はしかしもしも聞く者があれば嬉しそうだと感じただろう。 部屋はいたって静かで、外の喧騒が時折耳をかすめて抜けていく程度だ。はぐるりと部屋を見渡した。おおよその壁にはつくりつけの本棚があって、きれいに整頓されているというには所々乱雑な部分も見受けられるように、ずらっと背表紙が並んでいた。ブラッドが読書好きなのはよく知っている。は普段は本を読まないけれど、ブラッドの本棚を眺めるのは嫌いではなかった。並んだ本は全部あの人に触れられて、ページを捲られていて、ブラッドの時間を奪い去り、多かれ少なかれ何かをブラッドに与えている。そう考えると少しだけねたましいけれど、こう考えればいい。私はこのたくさんの本を束にして集めたよりも、もっとずっと愛されている、と。傲慢ではないと知っている。彼女がブラッドが不在の部屋に入れるのがいい証拠だ。少なくとも、気を許されているのは確か。 もう長いことこの部屋で過ごしたし、手も唇も肌も幾度となく重ねているけれど、部屋に入るたびに独特の匂いが鼻をつくのだ。なんとも表現しきれない、とにかく特別な匂いがするのだ。何の匂いか、もちろん知っている。これは、ブラッドの匂いだ。抱きしめられたときにはいっつもこの匂いに包まれる。とってもとっても愛しい匂い。 ふ、とは目を閉じた。何も見えなくなった分、聴覚とか嗅覚がはっきりしてくる。そうして、思う。まるで抱きしめられてるみたい、と。部屋中に染みこんだ匂いに、ブラッドの身体を感じた。 「…………来てたのか」 突然声がした。誰の声かなんて聞いただけでわかったので、眼を開けたけれど彼のほうを向くことなく、ブラッド、と名前を呼んだ。ブラッドが嘆息したように空気が動くのがわかった。 「ハロー、ブラッド。私が遊びに来てやったのに出かけてたとはどういう了見だ」 「主人がいない部屋に忍び込むなんて全くはしたない」 「許されてるから出来ることだもの、それに甘えるのは悪いことじゃないでしょう」 この屋敷はブラッドの所有物、つまり全てブラッドの意志にそって動いているということ。が、ブラッドがいなくてもこの部屋に入れるのは彼が許しているからなのだから。 ブラッドは歩いてきて、の隣に座った。の方を向いたので、その無防備な唇にキスしてやった。触れるだけのキスなんて挨拶みたいなものなのでブラッドは何も言わなかったけれど、の唇が離れた途端にブラッドの手は彼女の後頭部をがっちりと押さえた。微笑むに、今度はブラッドから、深い深いキスをしてみせた。舌先での笑い声をからめとる。 「――君がこの部屋に来ると、すぐにわかるよ」 「うん?どういうこと?」 息継ぎをするために離れた唇から、内緒話でもするようにブラッドが声を漏らした。耳ではなくて声を頬の皮膚あたりで受け取っているような感覚がしたのは、たぶんそのあたりをブラッドの匂いが掠めているからだと思う。 「……扉を開けた瞬間に、君の匂いがするんだ」 「目を閉じるだけで良い」花咲ミチル(Sweet Honeyed Orange) ←back |