「 拝啓 ぼくの魔法使いさま」黒川暁さん


オブジェのように積み上げられていく死体も、軽やかに翻る紅いコートの裾も、鮮やかに視界を染める血飛沫も、ぜんぶぜんぶ魔法のように見えたんだ。


[拝啓 ぼくの魔法使いさま]


僕の一日。朝起きて、ご飯を食べて、家の手伝いをして、友達と遊んで、疲れきって帰ってきて眠る。その繰り返し。それが僕、というカードに課された役目。日々を何事もなく生きて、そして徐々に時計を錆びつかせ、また次の僕へ。
そう、僕は世界を繋いでいく歯車のひとつ。
なのにどうして今日この日、僕は時計を狂わせてしまったのだろう。

ほんの気まぐれだったのだ、友人の誘いを断ってまで森に散歩に行ったのは。理由なんてどこにもない。ただ不意にそうしたくなったから、僕はいつもの道を外れた。
そして何気なく踏み入れた茂みの奥で、僕は見た。

それは心震える光景だった。僕と同じ役なしの連中が、用済みのカードになっていく様子を僕は初めて目にしたのだ。人間がモノになっていく瞬間を僕は見ていた。うっとりと。

「……で。さっきからこっちをずーっと見てる君は、誰かな?」
「!」

舞うような剣撃に見惚れていた僕はいつの間にか現実と虚実の境目が分からなくなっていたようで、声をかけられて初めてもう全てが終わってしまったことを知った。立っているのはたった一人だけ。僕がずっとずっと見つめていた人が、赤い服を紅で濡らして佇んでいた。左頬にべったりとつけられた返り血に何故かどうしても心奪われる。

「う、あ……」

何とか言葉を発しようとして開いた唇はからからに乾いていた。声を出そうとするだけで喉が痛む。逃げ出したいのに足が動かない。何も出来ない。
そこに至って漸く気付いた。僕をこの場に留めていた感情は確かに憧憬も含まれていたのかもしれないけれど、根底にあったのはきっと、恐怖なんだと。

「俺は誰、って聞いてるんだけどな。早く答えてくれないと君まで斬っちゃうかもしれないぜ?」

顔のある人間。つまりはこの世界に数えるほどしかいない役持ちのカード。その人が今、僕だけに向かって笑いかけていた。
斬る、というのが本気だったのは間違いない。実行に移される前に僕が名乗ることができたのは奇跡だっただろう。でなければ、紙一重の偶然だ。

「…………」
「そっか。俺はエース、ハートの騎士だ。よろしくな。……まあ、もう会うこともないだろうから名乗っても無駄か」

自分で名を尋ねた割に、エースと名乗る騎士は僕に興味などないようだった。興味、つまり殺意がないという事実にそっと胸を撫で下ろす。たとえそれが積極的に殺すつもりがないだけで、もし僕が彼の道行きを妨げでもしたなら何の躊躇いもなく排除されるに違いないのだとしても。
しどろもどろながらも僕が名を告げたことに満足したのか、彼は何事もなかったかのように大剣を持ち上げてその場から去ろうとした。僕の隣を颯爽と通り抜けていく。嗅いだ覚えのない臭い、血の臭いが、鼻腔につんと染み入った。きっとそれが僕を狂わせた。
でなければこんな愚かしい行動は取らなかっただろう。

「あ、あの!」
「………………ん、何かあるのか?」

そこから先は現実じゃないみたいだった。ふわふわした雲を踏みしめてるみたいに足元が落ち着かない。まるで演劇でも眺めているよう、他人事のよう。
なのに舞台に立っているのは他ならぬ僕だなんて。

「……僕は、あなたみたいに、なりたい……です」

言葉にするまで、僕は自分がそんなことを考えていたなんて知りもしなかったのに。

「……ははっ! 君、面白いこと言うね」

驚いて目を見開く、その一瞬前。笑顔を消した瞬間の彼の瞳ほど恐ろしいと思ったものは後にも先にもなかった。顔のない僕や両親や友達以上に、その目は濁っていた。濁っているのに硝子玉みたいだと思った。矛盾しているのは自分でも分かっていたけど、でもその感想を否定する気にはなれなかった。

「うん、なるほど。君は役なしのくせに役持ちのカードになりたいわけだ。それなら……」

その後の呟きはとても小さく低く、きっといつもの僕なら聞き取ることはできなかっただろう。
けれどどうしてかこの時の僕は、ちゃんと彼の言葉を聞いたのだ。その日……いや、今まで生きてきた中で一番はっきりと、明確に、深く、その台詞は僕の心に刻みつけられた。 彼は言った。



『それなら』

『君は俺の』

『敵、だな』



魂なんてものは僕にはない。心なんてものもあるのかどうか分からない。
でも確かにその時、この胸の奥にある何かが震えたんだ。

「また会おうぜ、少年。じゃあな」

今度こそ僕は本当に言葉をなくし、彼が立ち去るのを黙って見送った。木陰にその姿が消えて完全に見えなくなるまで僕はそこにいた。呼吸すら止めてその背を瞳に焼きつけた。
もし仮に僕が彼の笑顔を忘れてしまったとしても、去りゆく背中だけは決して忘れない。





その出来事がいつのことだったか、僕はもう覚えていない。
確かなのはそれが夢でなく現実だったということだけだ。何よりも濃かった死の香り、あれが夢ならこの世界は全て虚構に違いない。あれこそが最高のリアルだったと僕は信じている。
それでも、だ。生と死の境目に立ち尽くし、嘘のように爽やかな笑みを浮かべていたあの人は、僕の目には騎士なんかには見えなかった。
まるで玩具で遊ぶ子供のように時計を壊し、そして僕の心までもを鮮やかに奪っていた人を、魔法使いと呼ばずに何と呼ぼう。誰が何と言おうと、彼は僕だけの魔法使いなんだ。


僕は彼のようになりたい。