「逃げ出したのは私が弱かったから(君のことは愛してた)」綺矢さん


「…いつまで逃げるつもりだ? 君は」
「うるさい…、介入してくるな! あなたには関係ない、あたしだってこんな…、…こんな」

 語尾が小さくなる。沈黙が訪れれば、きっともう口を開く勇気が出ない。だから小さく目の前の男の名前を呟いてみる。それはあたしが思ったよりずっと忌々しげに響いて、それさえも面白そうに笑うこの男が、あたしは苦手だ。

「ブラッド、」
「早くエリオットの前に出てきてくれないか」
「いやだ」

 こんなに早くブラッドに見つかるだなんて予想外だったけれども、ブラッドがあの人、…エリオットを連れてきていないことに、ほっとした。
 もう会えない。…会う勇気がない。

「…一筋縄ではいかなさそうだな、お嬢さん」
「何のためにあたしがこんな所に居ると思ってるの! あの人にもう会わないためだ、あなたなら、…分かる、でしょう!」

 あの人はあたしに、すきだと、言ってくれた。それが嬉しかった。あたしはただのカードにすぎなかったけれど、それでもあの人はあたしがいいと言って、キスを贈ってくれた。それが何よりも嬉しくて、あたしはこの人のためならこの時計を差し出してもいいと思えた。
 でもあたしは気づいてしまった。この感情は毒だと。

「今のエリオットを君に見せてあげたいな、まるで抜け殻のようだよ」
「……あたしには、背負えない」

 あの人の愛は、あたしには綺麗すぎて、重すぎる。
 あの人はあたしに、あたしのためなら死んでもいいと言って笑って見せた。その時はあたしも、と何のためらいもなく返せた。けれども今は返せない。その時と今の違い、それはあたしが一人の夜を知ってしまったから。もしも、もしもあの人の時計が壊れてしまったらあたしは一人であの夜を越えなければならない。深夜の冷たい月の明るさにも耐えられなくなる。けれどもあの人はそんなこともしらないで、まいにちまいにちあたしを呼んで近くに置いてべたべたに甘やかして! 弱くなる弱くなるあたしが分かっていく、弱くなる弱くなる。
 ――誰かが言っていた。依存するということは、それに支配されるということだと。実際あたしはあのオレンジに浸食されて支配されて動けなくなって、そして一人になれなくなった。

「愛してる、愛してる、愛してる! だから逃げて何が悪いの! あたしが居たら絶対にあの人はあたしを浸食していく、そしてきっとあたしを置いていってしまうんでしょう! あのオレンジはあたしにとって毒だ、焼かれてあたしは死んでしまう!」
「…君は何も分かっていないよ」
「違う、違う違う違う! だってあたしは、愛してる、あたしの、」

 言葉が、とぎれた。
 代わりにじわりと、視界が歪んだ。ぐちゃりと目の前の景色が崩れて、心の中までがぐちゃぐちゃにされてしまって、あたしは嗚咽を喉でこらえた。ぐ、と啼く喉を押さえつける。


 そして、背後から伸びてきた腕にまた、捕まった。


逃げ出したのは私が弱かったから(君のことは愛してた)
(愛してた、愛してた愛してる! だからあたしは逃げたのに、嗚呼)