すぐ近くにあるのは、なまじ綺麗な顔立ちのせいで、妙な威圧感をはなっている、我らがボスの顔。いつも被っている馬鹿みたいな帽子を脱いでいるせいで、顔だけに限定して評価すれば、それなりに婦女子方からは高いポイントをいただけるのではないだろうか。性格に話をうつせば、おそらくは大抵のお嬢様方は逃げていくだろう。私だっていくら顔がよくてもこんな男は御免こうむりたい。そのはずなのに、ああ、いつの間にこの男を好きになっているんだ、私は。彼の帽子なんかよりも、よっぽど私のほうが愚かだ。 実は自虐趣味でもあるのかと自分を問いただしたくなる。この男が“そういう奴”だと知っていて、そしてそのうえこの男には既に違う子がいるとわかっていて。 余所者のあの子は、私なんかと比べ物にならないくらいに綺麗で、優しくて、そして『女の子』だ。あの滑らかな指先といったら。もう細胞レベルからしてきっと違う生き物なんだと思い知らされる。あの甘い匂い。柔らかい微笑み。スカートと長い髪が似合うという点においても、私とはおおよそ違うと断言できる。私の手は硬く、人を抱きしめるためでなく殺めるためのものだ。それに不満なんてなかった。傍にいられればよかったとかそういうのじゃなくて、役なしの私に割り当てられた役割だったから、この道を歩いていくことに疑問すら感じなかった。 何も考えず、ただ時間を過ごしていた私を揺らしたのは、余所者のあの子。あの子が私なんかにすら優しいせいで、私は『私』を知った。たくさんの感情を私にくれたあの子。私はあの子のことも、愛している。それは私がボスに向けるモノとは根本から違う種類のそれだけれど。 あの子をそうやって思うようになって、私が今までボスに対して抱いていたモノが、世間一般でいう愛だとかそういうものなんだということを知った。ああ、好きだったんだな。そう気づいてしまったら、もう、とまらなくなった。 「」 ボスが私の名前を耳元で囁く。鼓膜を撫でた息が血液を通して全身に運ばれて、私の身体をうめつくす。その声で私は全てをしばられる。そのせいで、私はあの子じゃないのよ、と言えなくなる。 あの子はもういない。還ったのだとエリオットは言った。彼女はこの世界を捨てて、こんなに彼女を愛している人を置き去りにして、私に何も言わないで、元居た世界に還ってしまった。 だからあの子は残酷だ。彼女は色んなモノを歪めた。だって、本来なら私はボスとこんな関係になれるはずがない。彼女がまだこの世界に、ボスの隣に居れば、私は叶わない恋に泣けば済んだ。大好きな2人が、2人でいられて、それが幸せならそれでいいと、涙が枯れ果てた頃に思えるようになったはずなのに。 「…………………、」 なにかを言おうとして、しかしそれは言葉にならずに、ただ溜め息のようなものとして、私の身体から吐き出された。 その溜め息が言葉になれば、きっと全てがまた動き出す。悪い方向か、良い方向か、それは想像できないけれど。少なくとも、こんなただれた関係は終わりを迎えられるはず。 私はそれを望んでいるはずで、それを望むべきなのだ。ボスは私の身体だけを抱く。心までは抱き締めてもくれない。ただ哀しいだけ、それだけのはずなのに。それなのに。 「溜め息を言葉にしてごらん?」 花咲ミチル(Sweet Honeyed Orange) ←back |